この項目では、刑事施設からの脱出行為について説明しています。
シン・リジィのアルバムについては「脱獄 (アルバム)」をご覧ください。
iOSやPS3における非公認ソフトウェアの実行手順については「Jailbreak」をご覧ください。
SNKが発売したアクションゲームについては「脱獄 -Prisoners of War-」をご覧ください。
「脱獄囚」はこの項目へ転送されています。映画については「脱獄囚 (映画)」をご覧ください。
日本一脱獄が困難な刑務所と言われた網走刑務所
脱獄(だつごく)は、収監されている刑務所や拘置所など刑事施設から脱走する行為である。牢破りとも呼ばれる。日本の法律上は逃走という[1]。 刑事施設の中では著しく権利が制限されるため、施設の外に脱出することによる自由を得るために行う。また死刑判決を受けた死刑囚が生命の危険を感じて逃走するケースもある。 逃走する方法としては、施設の破壊、職員の汚職や内部の協力者によるもの、外部の助けを借りて、火事や地震など災害の混乱に乗じて、様々な方法で脱出が行われる。これらに対して、刑事施設側も消防施設、センサーや監視カメラの拡充を行い、アメリカ合衆国[2]やオーストラリア[3]などでは条件付きで射撃規則を設け、周りに人里がないような流刑地や高度警戒刑務所
概説
日本、ナミビアなどでは脱獄は権力執行を揺るがす事態であるため、政府は逮捕勾留されている者が刑事施設から脱出する行為に対して、逃走の罪としている。
一方、オランダ[4]、スウェーデン[5]、ベルギー[6]やメキシコ[7]、ドイツ、オーストリア、スイスなど、いくつかの国家では、罰から逃げようとするのは人間の本能であるから、脱獄は合法とされている。しかし、これら脱獄が合法である国家でも、脱獄を支援するのは罰せられる[4][8]。
平成で日本における脱獄の事例は、1989年10月16日に強盗強姦罪等で熊本刑務所に服役していた受刑者が逃走し、1年後に逮捕された例[9][10]や、2012年1月11日に殺人未遂等で広島刑務所に服役していた中国人受刑者が逃走し、2日後に逮捕された例(広島刑務所中国人受刑者脱獄事件)がある。 逃げられないような地形、高い二重フェンスなどの施設構造、監視カメラ・センサー類の機械警備、複数人の警備員による警備。 年脱獄人数備考
対策
日本の刑務所(1921年以前は監獄)における脱獄人数推移(1882年以降)1882年以降の刑務所脱獄人数推移。また、刑務所以外の刑事施設(拘置所や留置所等)と旧日本軍の軍事刑務所からの逃走が含まれていないことに注意する。
明治・大正時代
18821,397西川寅吉、三重監獄に投獄。その後、脱獄。
渡邊魁、前年に脱獄し、大分始審裁判所竹田治安裁判所詰の雇員に採用される。
18831,4101882年以降最多の刑務所脱獄人数。その内の200人は3月の二日市監獄署(岡山県)で起きた集団脱獄事件であり、脱獄の際に受刑者が放火し、獄舎1棟が全焼している[11]。
1884992
18851,001西川寅吉、2度目の脱獄。その後捕まり、小菅監獄
1886697西川寅吉、3度目の脱獄。すぐに捕まり、空知集治監に投獄。
1887591西川寅吉、4度目の脱獄。その後捕まり、樺戸監獄に投獄。そして、5度目の脱獄をする。脱獄の際、足の甲に5寸釘が刺さる。
1888469
1889373
1890514西川寅吉、捕縛。再び樺戸監獄に投獄される。同年3月、標茶集治監が網走に引っ越して釧路監獄署網走囚徒外役所
渡邊魁、判事に昇任。
1891324渡邊魁、捕縛される。
1892268
1893127
1894128
189591
189679
189768西川寅吉、捕縛。その後、脱獄せず模範囚として服役する。なお、服役していた刑務所は、網走監獄(1903年)、網走刑務所(1922年)と施設名称が西川の服役中に2回変更されている。